こんにちは、NIMOです。医師でコメンテーターとしても活躍するおおたわ史絵(おおたわ ふみえ)さんは、薬物依存症の母との40年にわたる闘いを著書で綴り、大きな反響を呼びました。母親との複雑な関係が、自身の人生にどのような影響を与えたのでしょうか。
母の薬物依存症との闘いの始まり
幼少期、おおたわ史絵さんは母のことを心から愛し、憧れていました。しかし、医学部に進学し、病院実習に参加した際、母が依存していた薬物が厳重管理されていることを知り、母の異常に気づくのです。
幼少期の母への愛情と憧れ
おおたわ史絵さんは、幼い頃から母のことが大好きで、いつも母の後ろ姿を追いかけていました。当時は、母の行動を「普通」だと思い込んでいたそうです。他の家庭がどのようなものかを知らなかったため、自分の家庭も一般的なものだと考えていたのでしょう。母への愛情は深く、母に認められたいという気持ちが強くありました。
医学部進学で気づいた母の異常
医学部に進学し、病院実習に参加したおおたわ史絵さんは、厳重に管理されている薬物の中に、母が毎日注射している薬物があることに気づきました。その時初めて、母が依存症であることを認識したのです。開業医だった父と共に専門医を探し、母の治療に乗り出しましたが、依存症の根深さを思い知らされることになります。
母の気分に振り回された子供時代
おおたわ史絵さんは、母の感情の浮き沈みに翻弄され、自分の意思を持てない環境で育ちました。母の気分次第で、日々の生活が大きく左右されたのです。
母の感情の浮き沈みと、それに翻弄される日々
おおたわ史絵さんの母は、もともと気分の浮き沈みが激しい人でした。機嫌が良い日もあれば、一日中寝ている日や、理不尽に怒る日もありました。母の気分に振り回され、何をすれば機嫌を損ねるのか、いつも慎重に空気を読まなければなりませんでした。学校で使う運動靴を買ってもらうような些細なことでも、母の機嫌を伺いながら、タイミングを見計らって頼まなければならなかったのです。
自分の意思を持てない環境で育った影響
このような環境で育ったおおたわ史絵さんは、次第に自分の意思を持てなくなっていきました。母の意見に逆らうことは許されず、自分がどうしたいのかを考えること自体をしなくなったのです。幼稚園の頃、ピアノの発表会で他の子とは違う地味な服を着せられたことがありましたが、「自分は可愛い服が着たかった」と気づいても、母に言えませんでした。自分の意思を主張しても無駄だと学習し、考えないようにしていたのでしょう。
母の期待に応え続けた代償
おおたわ史絵さんは、母の期待に応えるために医師の道を選びましたが、その代償は大きなものでした。自分の意思とは関係なく、母の望む道を歩まなければならなかったのです。
医師になることを強いられた娘の苦悩
おおたわ史絵さんが医師の道を選んだのは、父が開業医だったこともありますが、それ以上に母の強い期待を感じていたからでした。母に認めてもらうには、医師以外の選択肢はなかったのです。しかし、本当は自分がどうしたいのかを考えることすら許されない状況に、おおたわ史絵さんは苦悩していました。
母の期待に応えるために失ったもの
母の期待に応え続けることで、おおたわ史絵さんは自分自身を見失っていきました。自分の意思や感情を抑え込み、母の望むように生きることに必死でした。本当の自分と向き合う機会を奪われ、自分らしさを失っていったのです。
母の異常な執着と、娘の決断
父を亡くした後、母の依存症はさらにエスカレートし、おおたわ史絵さんへの異常な執着を見せるようになりました。娘は、母との関係を絶つ決断をせざるを得なくなったのです。
父の死後、エスカレートする母の依存症
おおたわ史絵さんにとって、父は母の依存症と闘う戦友のような存在でした。しかし、2003年に父を病気で亡くした後、母の依存症はさらに悪化しました。おおたわ史絵さんに執着するようになり、娘を振り向かせるためにありとあらゆる手段を使ったのです。一日に十何回も頻繁に電話をかけてきたり、娘が出ないと救急車を呼んで騒ぎを起こしたり、親戚や知人に娘の悪口を言いふらしたりしました。
母を突き放すことを選んだ娘の葛藤
母の異常な執着に、おおたわ史絵さんは追い詰められていきました。このままでは、母に対して手を上げてしまうかもしれないと恐れたのです。母への愛情はありましたが、同時に母と同じ依存的な面を自分にも感じ、恐怖を抱いていました。葛藤の末、おおたわ史絵さんは母を「家族ではない赤の他人」と考えることで、母との関係を絶つ決断をしたのです。
母との関係と、見つけた幸せ
母を突き放した後も、おおたわ史絵さんは母のことを「毒親」とは呼びません。複雑な母娘関係を経験した今、同じような悩みを抱える人々に向けてメッセージを送っています。
母を「毒親」とは呼ばない理由
おおたわ史絵さんは、母の依存症によって引き出された異常な行動を認めつつも、母を「毒親」とは呼びたくないと言います。優しく温かい一面を持つ母の姿も知っているからです。また、子どもにとって、たとえどのような親でも「その親しかいない」のだと語ります。だからこそ、おおたわ史絵さんは母のことを守りたい気持ちがあるのでしょう。
複雑な母娘関係を経験した今、伝えたいメッセージ
2020年に出版した『母を捨てるということ』で、おおたわ史絵さんは多くの反響を得ました。薬物依存という特殊な状況ではありますが、親子関係の葛藤に共感する人が多かったのです。おおたわ史絵さんは、母との関係に決着をつけたわけではありませんが、小さな幸せを感じられるようになったと言います。「ご飯がおいしい」「花が咲いて綺麗だ」といった何気ない瞬間の幸せを、かみしめられるようになったのです。同じように親子関係で悩む人たちに、おおたわ史絵さんは「たとえ問題が解決しなくても、幸せを感じられる日は必ず来る」と伝えたいと語っています。
まとめ:おおたわ史絵、依存症の母と自分の意思を持てなかった子供時代
おおたわ史絵さんの体験は、薬物依存症という特殊な状況が背景にありますが、多くの人が抱える親子関係の問題を浮き彫りにしています。母の感情に翻弄され、自分の意思を持てない環境で育った影響は大きく、母の期待に応え続けることで自分自身を見失ってしまった苦悩は、多くの人の共感を呼ぶでしょう。母の異常な執着から逃れるために、母との関係を絶つ決断をしたおおたわ史絵さんですが、それでも母を「毒親」とは呼びたくないと語ります。複雑な母娘関係を経験した今、おおたわ史絵さんは同じような悩みを抱える人々に、希望のメッセージを送っています。たとえ問題が解決しなくても、小さな幸せを感じられる日は必ず来ると。おおたわ史絵さんの体験談は、親子関係に悩む多くの人に勇気を与えてくれるはずです。